八女茶の知識
歴史
応永13年(1406年)、栄西の教えを受け、明|明国より帰国した学僧、栄林周瑞(えいりんしゅうずい)が地元の庄屋、松尾太郎五郎久家(まつおたろうごろうひさいえ)の援助により、筑前国鹿子尾村(現在の八女郡黒木町笠原)に霊厳寺を建立し、持ち帰った茶の実を久家に分け与えたことが発祥とされている。十九世紀になると現在の日本緑茶の原型である青製煎茶製法|宇治式製茶が伝えられ、天保2年(1831年)に上妻郡山内村(現在の八女市山内)の古賀平助が試製、また同年、同村の大津簡七も宇治から茶師の吉朗兵衛らを雇い試製した。明治初期には山門郡(現在のみやま市)でも清水寺の住職田北隆研が茶師を養成し、蒸製緑茶の転換を図っていった。
しかし、「茶」が政府の外貨獲得政策のための欧米への輸出商品として脚光を浴びると、八女地方でも欧米向けに紅茶や釜炒り茶の生産が伸び始め、蒸製緑茶への転換は一時沈静化となった。大正時代に入り、「茶」の輸出(とくに紅茶)はヨーロッパ諸国の植民地でのプランテーション農業で高品質で安価な商品が生産されるようになると、国際市場を席巻し、紅茶の国内生産はまたたくまに衰退していった。
輸出商品としての日本の「茶」は世界市場の動向を受け、再び国内市場に向けて生産されていくことになる。
八女地方でも国内市場向けに生産を行うようになり、当時釜炒茶よりも人気のあった蒸製緑茶に再び注目が集まり徐々に転換されていった。八女茶の名称は大正14年(1925年)に八女郡福島町(現在の八女市本町)で行われた物産共進会で、地元の茶商許斐(このみ)久吉らがそれまで筑後茶、笠原茶、星野茶など様々な地元名で呼ばれていた名称を八女茶に統一、産地のブランド化として品質と流通の両面で拡大を図っていった。
福岡県筑後地方南部の矢部川とその支流星野川に広がる流域地帯で栽培されるお茶。八女地方はお茶の栽培として理想的な霧の発生しやすい土地で、沖積平野の腐葉土に育まれ栽培されたお茶は他県産地のものよりも味が濃く、まろやかな風味と甘みが特徴。 八女地方は日中の気温が高く、夜間は冷え込む特有の内陸性気候と、年間1600mm〜2400mmもの降雨量が、周瑞の学んだ中国蘇州...
